「マルセル・デュシャンと日本美術」展に行ってきた。
平日の昼間に行ったのだけれど、思いの外、混んでいた。
通勤時間帯の電車のように混んでいる訳ではなかったけれど、「平日の昼間に、マルセル・デュシャンを見に来るような暇人は多くないよ」と勝手にタカをくくっていた僕には、驚きの混み具合だった。
それと展示作品の大半が撮影OKなのも、驚きだった。
>マルセル・デュシャンさん
舐めててゴメンナサイ。いまでも人気ある作家だったんですね(-_-;)
展覧会は、第1部「デュシャン 人と作品」と、第2部「デュシャンの向こうに日本が見える。」で構成されている。
第1部では、印象主義から象徴主義からフォーヴィスムからキュビズムへと、時代の流れに沿った作品から、「泉」や「大ガラス」に至るまでが展示されている。
マルセル・デュシャンと言えば、誰もが連想するのが「泉」だ。
「泉」は男性用小便器を横に倒した作品だ。
あるいは
「泉」は男性用小便器を横に倒した「だけの」作品だ。
または
「泉」は男性用小便器を横に倒して、絶妙なネーミングをした作品だ。
「泉」が提示する問題は、
「オリジナル作品であることは重要なの?コピー作品は、イマイチなの?」
「題名は、とっても大事!言葉がイメージを想起させるから」
「アートの定義を変更しよう!」と言ったところ。
そして今回の展示で、絶妙だなぁ・・・というより、笑っちゃうなぁ!といたく感じたのが、展示されている「泉」はレプリカだということ。
ちなみに「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称・大ガラス)」も、「自転車の車輪」も、「瓶乾燥機」も、デュシャンらしい作品はレプリカだ。
美術館にレプリカが展示してあれば、いつもなら「はぁ?なんで複製品を展示しているのよ!本物を展示しなさいよ(怒)」となるところだけれど、デュシャンの場合は「そりゃそうだよね」で理解できてしまう。
デュシャンが、オリジナル作品の重要性を否定している訳だから、鑑賞者もいオリジナルにこだわる必要が無い訳だ。
そして楽しみなのが第2部。
日本とのかかわりを展示しているんだが、東洲斎写楽が6枚も展示されているんだ。
しかもきれいな刷りの版だ。
これは、人体が見たままではなく、記号化されて描かれていることがデュシャンとの共通点だ。
また「伝千利休作 竹一重切花入 銘 園城寺」も展示されている。
これは、日用品を芸術品に昇華させたことがデュシャンとの共通点だ。
あるいは「平治物語絵巻」。
これは、時間が「同時進行的に進む」捉え方がデュシャンとの共通点だ。
なにはともあれ、「マルセル・デュシャンと日本美術」展はお勧めだ。